鉄砲喜久と呼ばれた男の映画化にあたり

 統括プロデューサー 佐藤 重樹

2000年に「鉄砲喜久一代記 明治・大正・昭和を駆け抜けた快男子」という本が刊行されました。著者は油棚憲一氏(あぶらだな・けんいち)、本名茂在寅男。筑波町出身で東京商船大学教授を勤め海洋学の権威として知られた方で、存命であれば102歳。
豪快な人生を送られた茂在氏は、自分と同様な快男児が明治時代に同郷から東京に出て活躍していたことを知り、共感し、学者らしく調査を重ね、この本を書き上げました。
 「一代記」が出版されて15年後、その生き様に共感を覚えた人物が映画化を起案します。
しかしすでに茂在氏は他界され、版権の持ち主も特定できない状態でした。
「鉄砲喜久一代記」を原作としての映画化が困難となり途方にくれていた時、映画化を目指す仲間の一人が神田神保町の古本屋で偶然「快侠山田喜久次郎君」という中央新聞社発行の古書を発見しました。驚くべきシンクロニシティです。
さっそく、この本を基にNHK大河ドラマなどを手掛けた香取俊介氏に脚本を依頼。
映画制作が動き出しました。
 
「鉄砲喜久」本名は山田喜久次郎。生家は筑波の「がまの油本舗」といわれ、「さーてお立ち会い」で始まる効能書きの宣伝口上を書いたのは喜久次郎だ、とは前出の茂在氏が「鉄砲喜久一代記」のあとがきで書かれたことです。
少年時代、めっぽうけんかが強かった喜久次郎は、若くして東京に出、苦労を重ねるなかで著名な人々と出会い、だれもが一目置く存在となり、浅草六区を興す実力者になりました。一方で、やがて横綱になる下積み時代の常陸山や、浪曲師として名声を馳せた桃中軒雲右衛門を支えるなど優しさをみせ、「男一代」と称されるすさまじい人生を送り、1928年、69年の生涯を閉じました。
人生哲学「みっともない」ことをするなは、まさに常陸男(侠)を貫く生き様でした。
 
映画化するにあたり、いくつかの困難と出会いました。
一人の男が、一人の男の生き様に惚れて企画し、個人で制作を立ち上げたことなので当然制作費にも限界があります。明治時代だけの映像で全編をおさえるにはかなりの金額が必要である、という見積もりが出てしまいました。この難題を解決したのは作家の香取氏でした。
氏には、この映画のテーマである「男の生き様」を通じて、みっともない行動をとる昨今の一部の若者に何かを訴えたいという思いがあったようです。香取氏のこの思いは他のスタッフにも共感を呼びました。明治の男と現代の男を向き合わせ、同じ時間で描くというタイムスリップ展開ストーリー構成の誕生です。そしてこの構成が制作費の抑制という効果をももたらしました。
 
次は「男」を演じて絵になる俳優さんを見つけることでした。
スタッフの交友から「松平健」さんのお名前が出ました。申し分ない名優の名前を挙げられて興奮しましたが、果たして引き受けて頂けるものかどうか……。恐る恐る明治座で公演中の松平さんの楽屋を訪れたことが強く印象に残っております。寡黙ながら優しいまなざしで受諾して頂いたときの感激は、これでスタートできる!という安堵の気持ちとともに昨日の出来事のように思い出します。
松平さんが主演を引き受けてくれた……、ということはもう一人の侠である「根岸浜吉」役の人選が大切になってきました。浅草六区を築き上げた双頭なのですから……。
スタッフの一人がとんでもない人の名を挙げてきました。なんと「北島三郎」さんです。
北島さんから信頼のある人のご協力を得て、お会いしました。
結論からいえば、快諾して頂きました。あまつさえ「家族のように楽しく創りましょう」という言葉とともに力強い握手をして頂いたのです。
このころになると、山田喜久次郎の霊の後押しが加わっている、ということがハッキリと感じ取れるようになっておりました。
様々なシンクロニシティが立て続けに起こりました。あり得ない偶然がそれこそ毎日のように起こるのです。そのひとつひとつをあげたら嘘としか思えないでしょう。
このお二人の線から、星由里子さん、秋吉久美子さん、田村亮さん……。
そしてジャニーズ事務所から長谷川純さん。素晴らしいキャストが続々と決定していきました。
 
撮影も奇跡的に順調に進みました。これも大げさではなく、三月という雨の多い季節にもかかわらず、ロケの時はすべて晴れ、室内撮影の時は雨……と信じられない天候の推移でした。思えば素人の私が統括プロデューサーを受けるなどということは、それこそ僭越を通り越して無謀の極みなのですが、素晴らしい方々との出会いによって実に楽しい時間を過ごすことができたのです。それこそ人生の宝となる経験を頂きました。
この映画に関わった全ての方々に心から感謝いたします。
誠に、有り難うございました。
 

平成28年8月